二次災害にご用心

 精神的に辛いとき、よく『周りが見えなくなる』と言われる。ただ、精神的に辛いだけならば、案外まだ冷静に周りを見る事ができる。あくまで自分の場合だけれど。最近はゆとりのある生活を送っているし、キャパシティも大きくなった気がするので、比較的周りのことが見えている気がする。

 集中しすぎているとき。
 集中が切れたとき。
 何かに追われているとき。
 肉体的に追い詰められたとき。
 精神的に追い詰められたとき。

 いわゆる二次災害のようなもので、周りが見えなくなる場合は大抵様々な要因で身体に負荷がかかった場合に併発する。

 周りへの配慮がうまくいかなくなる。
 周りからの配慮が感じられなくなる。
 孤独感に苛まれる。
 目前の課題が現実より大きなものに見える。
 何をするにも『〜しなければ』という語尾が付く。
 思考力や判断力が徐々に低下していく。

 こんなところだろうか。ふと日常から自分を切り離してみて、こんな状態になっている人は、キチンとこの状態を認識してみると良い。自覚ができない者は二次災害が新たな負荷の原因を作り、いつかその重みに耐えられず崩壊してしまうのだろう。
 周りが見えていないと認識することができれば、あとは簡単だ。現状に合わせて自己防衛の策を張り巡らせれば良いのだから。周りに気を使わない。やることを最低限に絞る。あれこれ考えず、目の前にある課題をこなしていく。単純なようで、効果は高い。
 しかし大抵の場合、正確に自覚することができず、色々なことを同時進行で行なっていたり、わざわざ自分に負荷をかけるかのように周りの悪い要素を吸い込んでいく。

 本当に周りに意識を配らなければならないときこそ、自分のことを考えてみるべきではないだろうか?期限が決まっていたり、どうしても急がなければならないことが重なったときこそ、一度自分を認識し直して、最低限の『心のゆとり』が自分にとってどのくらい必要なのかを把握するべきではないだろうか?余裕がないときの周りへの気遣いほど、周りの人への二次災害に他ならないのだから。

タイムマシンで1年後を観ておいで

 ちょうど1年前くらいは悩み続けていた気がする。駆動系の作業と大学の授業の忙しさはわざわざ同時進行で訪れる。あと2ヶ月ずれてくれればいいものを……憎たらしいものである。
 あまりに忙しいとき、ゆとりをなくしているときはまともな思考ができない。唯一まともな思考をしようとするならば、考えるべきことを最優先にして、日常についての思考を遮断するくらいしか自分に方法はなかった。
 そんな生活が2ヶ月、3ヶ月と続けば鬱っぽくなるだろう。もちろん自分もなった。現実から逃げ出したい衝動に駆られる。勉強なんてできたもんではないし、学費だって全然足りない。むしろお金は減っていく一方だし、睡眠時間も平均3時間。どう考えたってそんな状況に置かれたら『こんなことのために生きてるんじゃないんだけどな』などと思うほうが普通なのだろう。本業(一応学問のことだけど)があるのにそれができなくなるのはどう考えてもおかしい。

 では、今になって振り返ってみるとどうか?辛かった時期や内容は思い出せるが、辛かったかと言われると、辛く無かったように思える。むしろ楽しかったような気さえするし、今になって単位とかの後始末をやるハメになってはいるけれど、それも正直苦ではない。当時悩んでいたことも、終わってみればそんなもんである。ばかばかしい悩みだったもんだな、と。

 じゃあ現役の人に、『そんな悩みばかばかしいわ』と言えるかというと、そんなことはない。渦中の人からしたら『終わってみればたいしたことないよ』なんていわれても、それこそばかばかしい考えだろう。『たいしたことないわけないじゃないか、バカじゃないのこの人?』といった具合だろう。

 大抵の人が終わってみればそう思っているようだから、間違ってはいないのだろう。なのに渦中で解決している人なんてみたことない。


 ……世の中うまくいかないな。

blog開設

 さて、mixiほどの規模に公開するようなことではない内容はこっちに書いていこう。
 名前にいきなり"2"がついているのは、そういう意味。ramsaではない、違うネームで書いていたけれど、それは公開していなかった。そっちも再びスタートしようかと思うけれど……さてさて。

 文章のレイアウトはMORI LOG ACADEMYを参考にしよう。シンプルな文章構成は説得力があるものだし、何よりも文章の訴える力の大きさが違うのを読むだけで感じられるようなものは、そんなにたくさんあるわけでもないので。