まるでそれは走馬灯のように

おじいちゃんが亡くなった。骨の癌だった。




新潟の家。



中越地震の後に一度行ったきりで、気がつけば何年この家に来ていなかったのだろう……地震の傷などとっくに過ぎ去り、むしろ家の2階などはキレイに様変わりしていた。大学に入ってから鳥人間やらバイトやらで、毎年のように行っていた新潟にもあまり行かなくなってしまっていた。
ここ最近はお見舞いに来ていたが、病院に直接行って、次の日は用事があるから新幹線で帰る……ということしかなかったからだろう、こんなに来たのが久しぶりだったのは。




2階からの景色。奥の木に囲まれた神社でよく遊んでいた。



いとこ7人が全員揃ったのは何年ぶりだろう?恐らく前は幼稚園か小学校の頃くらいだったような気がする。こんなことをいうと不謹慎なような気もするが、こんな機会でなければそうそう集まれるものでもないので嬉しかった。私は幼稚園の頃から本当に親しくしていた幼馴染のような人はいないので、年の近いいとこが幼馴染のようなものだったからだ。
同い年の女の子や、その妹の子は年が近かったからよく遊んだもので、顔を見ると昔一緒に遊んでいたときの記憶が鮮明に蘇ってくる。

「この押入れの中で遊んだよね」
「あのとき蛙踏んで転んで大泣きしたの覚えてる?」
「なんであんなに蝉の抜け殻集めたんだろう」
「夜、外に茣蓙を引いて寝転がって空見ながら流れ星数えたな」

とか。思い出しはじめたらキリがないけれど、思い出そうと思わなくても勝手に思い出してしまうから不思議だ。



神社。昔は遠く感じたけど今は歩いて2分くらいだった。


遊具。昔から何も変わらない。

空も悲しげ。



亡くなるつい2日前にお見舞いに行ったときには、もう喋れる状態ではなかったけれど生きていた。でも、やっぱり限界だったようだ。
おじいちゃんの癌は骨のものだったので、寝ているだけでもかなり痛そうあった。そう考えると、長く苦しまなくて済んだのは良かったのかもしれない。でも、やっぱりもっと長く生きて欲しかった。忙しさに負けてなかなか新潟に行っていなかったことを後悔した。




庭の錦鯉。おじいちゃんが育てていた。



葬式では、私の父が喪主だった。こんなことをいうのもなんだが、打たれ弱い父なので心配していたが、このときの父はしっかりしていた。病院にお見舞いに行っておじいちゃんの容態が予想以上に悪いのを見た帰りなどは車で事故を起こしそうになったりするほどだったのに、本当にしっかりしていた。なんだかんだいっても父が亡くなったのだから私が受けている喪失感なんて比ではないはずだろうに。そう考えて、父が頑張っている間は私も頑張ろうと決めた。
おくりびとの手伝いをしたり、通夜で兄と一晩中線香の火を絶やさないように見張っていたりもしたけれど(WASAの徹夜力が活きた)、それは父の姿があったからこそ辛くなかったのだと今になって思う。




へび。


朽ちた木を寝床にしているらしい。



告別式のとき、棺桶にお花を入れるときも心の中で「泣くな泣くな泣くな……」と唱え続けていたけれど、さすがに耐えられなかった。無意識におじいちゃんとの思い出が浮かぶ。時間でいったらほんの数秒だっただろうけど、高速でスライドショーを回しながらおじいちゃんの声が流れてくるような感じ。頭の中がチカチカして、どうしようもなくこみ上げてくるものがあって、気が付くと泣いていた。走馬灯って、死ぬときに起こるんじゃなくて、あまりにも近いところで死を感じると起きるのかな?そんなことを考えていた。




蛇が寝ている木にいた蛙。


何事もなかったかのように、昔と変わらない風景だった。



火葬場で最後のお別れをした後、兄と二人で焼き場の番をした。風が強くて雲の流れがとても速い。山から吹き降りてくる風が草原や田んぼを駆け抜けている様子がトトロのシーンみたいだった。この風にのって天国まですっと昇ってください。そう強く願った。